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外壁の下塗 『一般住宅』

外壁の下塗 『一般住宅』

 今日の現場の天気は、非常に不安定な天気で雨が降れば休憩し、雨が上がれば作業を始めるといった捗らない作業条件。そんな中でも外壁の下塗はすべて終わり、一部の外壁中塗を始めるところまで作業は進んでいます。明日は土曜日、天候も上々の天気予報が報じられているので上手く作業が進めば外壁の中塗・上塗が終わり、窓回りのビニール養生撤去ぐらいまで作業が進めばイイんだけど・・・。






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FBで拾った話

FBで拾った話

大川 宏之さんの写真アルバム

 東日本大震災から1年半も経つと、あれだけの大災害だったのにあの強烈な記憶も段々と薄れてきてしまいます。それこそあの時、世界中の国々が被災地に救援に駆けてけてくれた事はマスコミの報道でよく知られています。でも、最初から最後まで被災地で必死に活躍した自衛隊の事はあまり報じられない・・・。言いたいことはそれこそ山ほどありますが、グッと堪えて殉職された自衛官の方々のご冥福をお祈りしたいと思います。











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面白いウェブサイト!!

面白いウェブサイト!! 

 リアルタイムで、世界の空を飛んでいる旅客機が現在何処にいて、何処に向かっているかが分かるウェブサイトです。日本の上空も凄い数だけど、ヨーロッパはもっと凄い数の飛行機が飛んでいます。パソコンモニターをボーッと眺めている時には、オススメのウェブサイトかもしれませんね!







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高圧洗浄後 『一般住宅』

高圧洗浄後 『一般住宅』

 昨日の洗浄作業は、時間がかかりにかかっただけあって屋根一面にこびり付いていた苔・ドロ汚れが、見事綺麗に洗い流されています。さて、今日の現場作業は外壁作業を進めるためのビニール養生と窓回り・開口部のコーキングを予定しています。優先順位としては窓回り・開口部のコーキングを優先に行い、コーキングを打設してから1日は養生期間として開けてから外壁の下塗・中塗・上塗と作業を進めて行く日程でいます。






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時間がかかったな~。

時間がかかったな~。

 今日から始まる現場は、まず高圧洗浄の作業から。先週まではチョットのんびりしていましたからね。その反動なのか、通常ならば半日ほどで終わってくる高圧洗浄が今日は丸1日かかっています。昼休みのに連絡したところ、築20年程のお宅なので兎に角汚れが酷いとの事、塗替工事の母屋の他に、外塀・外構も塗装しますからその分と汚れが酷い分だけ余計に時間がかかったようです。

 一番最悪な、洗浄作業が終わらないという結果ではないので、まあまあ・・・というところかなぁ~。2人が現場から帰ってきたら、明日の準備を手早くに終わらせて今日の仕事は早々に解散の予定です。




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マニアックなPCケース 4

マニアックなPCケース 4

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 お盆休みに日常業務でフルに使っている、私のパソコンを掃除しようとフロントカバーを外すとおおッ~凄い!チョット掃除を「まだいいか」と怠ると酷い状態になり、隙間という隙間から埃を吸い込み前面の吸気FANフィルターは目詰りを起こしています。日頃、注意しなければならないのがこのフロント吸気回りだけなんですけど、パソコンの調子がいいとつい忘れがちになってしまいます。

マニアックなPCケース 4

 上の画像は、このパソコンケースを買って組立が終わってからの記念撮影です。今から5~6年前の画像で、マザーボードは貰いものCPUは中古のPentium 4(Northwood)HDDは1つの今から見れば最小構成の仕様で自作パソコンを始めました。
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夏・・・のイメージで!

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Heart Of Glass


 私の独断と偏見で、暑い夏というとBlondie(ブロンディ)Heart Of Glass、歌えもしないのに2~3日前から頭の中でズッーとを繰り返しています。何かの拍子に思い出すんでしょうね、綺麗な人は綺麗な声で歌うんだな~!と学生の頃いたく感心したのを思い出しました。

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頂きもの、ありがとうございます!

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 お盆前にチョットした、補修作業をしたお客様からこんなに沢山ビールを頂いてしましました。数年前に屋根・外壁の塗装工事を請け負わさせて頂いたお客様なので、もとよりお代を頂戴するつもりはさらさらありませんでしたが、お客様が気の毒がってビールをわざわざ届けて下さったと言う訳です。うれしいですね!有難いですね!ご好意に甘えてキンキンに冷やしてから頂きたいと思います。どうもありがとうございました~!







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ダイドー・ブレンドコーヒー

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 昨日の夕方は午後6時頃にお客様宅に伺うお約束、時間調整のために立ち寄ったコンビニで大好きな缶コーヒーを購入してタバコと共に暫し至福の時間を味わいます。好きな銘柄は二つ、ダイドーともう一つはポッカコーヒーどちらも昔から飲んでいるせいか、嫌な後味というかクセが無いのがいい。UCCコーヒーやMAXコーヒーは甘すぎてダメ、かと言ってブラックはチョット物足りない私にはグッドな二つの銘柄です。






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施餓鬼法要で

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 「餓鬼道に苦しむ餓鬼に施しをなし、その善根功徳を無縁仏や三界万霊に廻向する。そしてまた、その供養が巡り巡ってご先祖さまに届く。施餓鬼とは、施しの心の大切さを私たちに教えてくれるとともに、ご先祖さまを供養することの大切さを学ぶことのできる行事であると言えます。」なんとなくは分かっていたんですけど、こういう意味だったんですね施餓鬼供養とは。

 8月19日に行われて、その時に頂いた新しい卒塔婆を昨年の古い卒塔婆と交換いたします。こうして見ると、1年過ぎるのは早いもんですね!






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名言・格言 4 【間宮 あや】

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 「金メダルのような銀メダル。もちろん金メダルを獲りたかったと思っていますけど、この銀メダルを獲れたのも、このステキな仲間たちとだったからですし、すごく誇りに思います。(宮間あや)」  画像は対フランス戦で試合終了後、負けて力無くグランドに座り込んだフランス選手を慰めて健闘を讃えている間宮選手。見ていて目頭が熱くなりますね!相手チームも勝ちたかったんだし、元チームメイトだったとはいえ自然に出来る度量の深さが素晴らしい!!

 試合で勝った者には友人が集まってくる。新しい友人もできる。本当に友人が必要なのは、 敗れたときであり敗れたほうである。私は敗れた者を訪れよう。 (デットマール・クラマー)







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誇らしく思う!

誇らしく思う!

 ネット上でチョット前に話題になったことを少々。ロンドン・オリンピック男子サッカー、銅メダルをかけた日本対韓国との試合で日本は惜しくも負けてしまいました。試合が終わった後に観客席で日本人サポーターがゴミを拾い集めている画像が話題に。普通ならば、試合に負けた腹いせに椅子を壊したりゴミを散らかしたりと、暴れに暴れて手当たり次第八つ当たりしてもおかしくない心理状況なのに・・・。

 勝った相手はと言うと、オリンピックでは禁止されている政治的主張のプラカードを持って、これまた得意げに試合が終わったグランドを走り回っている。2つの事が同じ時間に起こっているとしたら、私はグランドに背を向けてゴミを拾う日本人の彼らに拍手し、彼らの行動を褒め称えたい。東北の震災の時もそうでしたが、それはそれこれはこれと区別して考えられる持って生まれた日本人のDNAてこんな時に発揮されるんですよね。同じ日本人として、大変誇りに思います!






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納涼祭・花火大会

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 昨日の夜は、納涼祭・花火大会と大人でもワクワクするようなイベントが各地で結構あったようですね。地元玉前町会でも、午後6時30分から納涼祭を始めますと拡声器を積んだ車で町内全体に触れ回っていましたからね。子供の頃だったら、そんなアナウンスが聞こえると居ても立っても居られずに盆踊り会場にすぐに直行したもんですけど、大人になるに連れ段々と遠ざかってしまうもんですね。









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新築祝い!

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 夏期休暇最終日は、親戚の新築祝行って参りました。FBにも画像をUPしていますが、違う角度からの画像をもう一枚掲載してみます。敷地に対して建物の建て方は十分ゆったりしていて、将来的に必要となる補修もしくは外壁塗り替え時でも、お隣近所にご迷惑をおかけすることは少ないと思います。敷地が広いのはとても羨ましい!兎も角、夫婦2人の夢が叶った念願のマイホーム、心からお祝いを申し上げます。新築おめでとうございます!






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鯵の刺身

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 毎年迎え盆を終えると、そこからが本当の意味で休暇という気分になり、昨日は羽を伸ばしに妻とお出かけです。私が頼んだ鯵のお刺身、おいしそうなので妻がちょっかいを出しています。






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送り盆

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 昨日は終戦記念日、そして私の暮らす地域では送り盆になります。地域によって送り盆は違いがあるらしく、16日が送り盆という方も多数いらっしゃると思います。ご先祖様が生前暮らした自宅への里帰りとなる「お盆」、感想は一様に頂けませんから私の身の回りに起こる事で私自身がご先祖様の意向を感じ取るしかありません。

 そういった意味で昨日朝方の天気は、空を見上げると晴れているのにポツポツと雨が降り出して、道路一面は瞬く間に水を撒いたような状態となって、今日の天気は下り坂?と思えば真夏の太陽が顔を出し濡れた地面を乾かしにかかる、俗にいう涙雨と言うことなんでしょうか。日本を取り巻く内外の状況は、ヤル気を削ぎ目を覆いたくなるような事ばかりですからね!

 誤った情報や間違った認識を自分の中で正し考え、より良い明日を築くためには・・・。チョット真剣に考えさせられた、送り盆で終戦記念日の昨日でした。






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続々 終戦記念日だから!

今日は終戦記念日です。以下、私が尊敬するブロガーねずさんの大好きなブログ記事をコピペで御覧ください!

エクゼターとエンカウンター・・・日本の武士道精神


続々 終戦記念日だから!

2008年12月7日、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(89)は66年の時を経て、埼玉県川口市内の工藤俊作氏の墓前に、念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えました。

大英帝国海軍中尉サムエル・フォール卿は、戦後英国外交官を務め、その功績によって「サー」の称号を贈られている人物です。

外交官定年退職後、1996年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓。

彼は、その本の巻頭に

 「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」

と記した。


そしてサムエル・フォール卿は、工藤俊作氏を、「命の恩人である」として、自らの体験談を綴りました。

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1942年3月1日、英重巡洋艦「エクゼター」(13,000トン)、「エンカウンター(1,350トン)は、ジャワ海脱出を試みて日本海軍の艦隊と交戦し、相次いで撃沈されました。
そして両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵が漂流の身となります。

翌3月2日、午前十時ごろには、彼らは生存と忍耐の限界に達し、一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとまでしてた。


そのとき、偶々、単艦でこの海域を哨戒中であった日本の駆逐艦「雷」が、漂流している英国乗組員を発見します。

日本の駆逐艦「雷」の乗員は220名。
漂流する敵将兵は450名余。

さらにこの海面には、敵潜水艦が多数徘徊しており、艦を停止させること自体、自殺行為に等しかったそうです。

しかし、「雷」艦長の工藤俊作少佐(当時)は、敵英国水兵の救助を決断し、艦を停止します。

そして敵兵を自艦に救助する。

救助の時点で、工藤艦長は、英国兵達の体力が限界に達している事に気づきます。

そこで万一のためにと警戒にあたらせていた要員も救助活動に投入。

いちぶの英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできなかった。

そこで、竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海に沈んで行く者もあった。

そこで工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませます。
そして気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げた。


サムエル・フォール卿は、当時の状況をこう回顧している。

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「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。

ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下した。

私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。何度も自分の腕をつねった。
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さらに艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。

日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労った。

当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた中で、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。



戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。
実際、そういうケースは多々ある。

だから、そうとう温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は違った、
艦を長時間停泊させ、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助した。
しかも相手は敵将兵です。


それだけではない。

工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助した。

戦場の常識ではありえないことだった。
そして、422名が救助された。


救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語でこう訓辞したといいます。

「貴官らはよく戦った。
貴官らは本日、日本帝国海軍のゲストである。」


そして艦載の食料の殆どを供出して歓待してくれた。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けてきたそうです。

工藤俊作艦長は、明治34年1月7日、山形県の生まれです。

工藤俊作氏は、明治41年4月に屋代尋常小学校に入学。

明治43年4月15日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼した。

工藤俊作氏はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。

「平民でも海軍仕官になれますか」

担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。

そして工藤氏は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学します。

当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験だった。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。

この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できなかった。

ところが日本は、学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できた。

英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていたといいます。

工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学します。

その前年の大正8年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していた。

海軍兵学校校長に着任した鈴木貫太郎氏は、大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新した。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけた。

鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語ったといいます。

海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月着任します。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたといいます。

工藤艦長の着任の訓示。

「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」

乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

また、工藤氏は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

工藤氏は日頃士官や先任下士官に、
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていたといいます。

見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたといいます。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、
「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。

艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。


昭和16年12月8日に大東亜戦争開戦。

開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。

英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めた。

日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。

さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
 
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。


フォール卿は語ります。

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艦長とモーターボートに乗って脱出しました。

その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。

この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。
固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

私たちは救命浮舟に5~6でつかまり、首から上を出していました。

見渡す限り海また海です。
救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。

この時、ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかった。

しかし我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。

しかし一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。

死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。

翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。

仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めた。

軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していました。
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このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。

二番見張りと四番見張りからそれぞれ、
「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」
「漂流者四〇〇以上」
と次々に報告がはいる。

工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前10時頃「救助!」と命じた。


フォール卿は語ります。
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午前10時、突然200ヤード(約180M)のところに日本の駆逐艦が現れました。
当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。
そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えました。
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ここで工藤は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけた。

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」

工藤氏は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらます。


佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想しています。
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筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。

敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。

五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。

それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。

その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。

彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。

艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。

当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。

その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。

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浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。

甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。

この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。
立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断する。

「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

この期に及んで敵も味方もなかった。

甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。
一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。
救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。

便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。

工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。


フォール卿が語ります。
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私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。

『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。

駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです。

艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。

われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。

しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。

友情あふれる歓迎でした。

私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。

これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。

私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。

すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.

Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.

I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

フォール卿はさらに、目を潤ませて語る。

『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。

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「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではなかった。

「雷」の上甲板面積は約1222平方メートル、この約60%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、488平方メートル前後である。
そこに、約390人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。
工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可した。  

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。

舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。
高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。

この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、

「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。

高橋中将は

「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。

移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。

工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗した。

とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。

副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。

「雷」は、1944年(昭和19年)4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。
乗員は全員戦死。

工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となって終戦を迎えます。

戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。

1979年に胃癌のため死去。

生前は上記の 事実は家族にも話さなかった。

理由は、雷がその後戦没しており多くの乗組員が犠牲になったという自戒の念からだったといいます。

ご家族がこの話を聞いたのは助けられたフォール卿からです。


日本は、武士として戦ったのです。

武士だから、みずから口からは、戦時中の多くを語らなかった。

だからといって、彼らの名誉ある行動を汚すようなことを許すのは、わたしたち現代を生きる日本人のすべきことではない・・・ボクはそう思います。
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続 終戦記念日だから!

 今日は終戦記念日です。以下、私が尊敬するブロガーねずさんの大好きなブログ記事をコピペで御覧ください!

日本ミツバチの結束行動


続 終戦記念日だから!

今日は日曜日なので、過去記事の文章を編集しなおしたものをお届けしようと思います。
お届けするお話は「ニホンミツバチの勇気ある行動」です。

実はこのお話は、在特会の桜井会長とお会いした際に、彼から教わったお話です。
彼は、この日本ミツバチの行動を通じて、日本人の心を教えてくださいました。

日本人必読の物語です。


ミツバチ自体は、どなたでもご存知かと思います。
このミツバチ、日本古来種の「日本ミツバチ」と、ハチミツを採取するために養殖されるのに用いられる原産地イタリアの「西洋ミツバチ」がいます。

同じミツバチなのに、なぜ養蜂には「西洋ミツバチ」が用いられるかというと、「日本ミツバチ」は大変神経質で、環境が変わると巣を捨てて移動してしまうので、養蜂に向かないのです。
要するに、養殖される=奴隷にされるような生き方はできない、というわけです。

一方、養蜂に広く用いられる「西洋ミツバチ」ですが、「日本ミツバチ」と比べるとすこし体が大きくて、色も黄色っぽい。逆に日本ミツバチは、小柄で色も黒っぽい。

さて、養蜂場で飼育されている「西洋ミツバチ」ですが、不思議なことにまったく野生化しません。
なぜ野生化しないかというと、できないのです。
なぜできないかというと、日本には、ミツバチの天敵である「スズメバチ」がいるからです。

ミツバチと比べて、何倍もの体躯を持つ「スズメバチ」は、ミツバチの巣に飛来すると、巣の前でホバリング(停止飛行)をして帰巣する働き蜂を捕らえます。

そして付近の木の枝などに後肢で逆さまにぶら下がり、ミツバチの頭部、羽、足、腹部を大腮(おおさい:エラのこと)で切り落とし、胸部だけを肉だんご状にまるめて巣へ持ち帰える。
幼虫の餌にするためです。

ハチといえば「刺す」ものと相場が決まっています。毒針です。
ミツバチの毒針は、逆トゲがついています。だから針が相手の体内に残ります。
効果は大きいけれど、一匹が一本の毒針です。
針を失ったミツバチは、死んでしまう。

ところが「スズメバチ」は、毒針に逆トゲがありません。
毒の続く限り、何度でも相手を突き刺すことができます。
しかも、その毒液をお尻から相手にまき散らします。

この毒液は、警報フェロモンの働きを持っていて、ニオイに釣られて大勢の仲間がやってきます。
そうして大量にやってきたスズメバチは、ミツバチの巣にたかり、ミツバチを捕食し、巣を壊滅させてしまうのです。

ですから、養蜂場を逃げ出した西洋ミツバチが、自然巣を作っても、スズメバチに襲われてすぐに絶滅してしまうのです。

飼育している西洋ミツバチでも、スズメバチに襲われると、あれだけたくさんいる養殖蜂が、たった1日で全部殺されてしまいます。
「西洋ミツバチ」にとって、「スズメバチ」は、まさに脅威なのです。

ところが、世界で唯一、スズメバチを撃退してしまうミツバチ種がいます。
それが日本ミツバチです。

どうやって撃退するのか。
これが実に日本的というか、特徴的なのです。

「日本ミツバチ」は、お尻の毒針を使って戦うのではありません。
集団でスズメバチにとりつき、熱死させるという方法で、「スズメバチ」を撃退してしまうのです。

「日本ミツバチ」は、「スズメバチ」が巣に近づくと、集団で出迎えます。
そして、腹部を高く持ち上げ、一斉に左右に激しく羽を振ります。
ミツバチダンスと呼ばれる行動なのですが、日本ミツバチが大軍で密集し、ブンブンと唸る姿は、これまたたいへん特徴的です。

この行動によって「スズメバチ」は、一匹の日本ミツバチに的を絞れなくなり、また巣門の前で落ち着いて待ち伏せすることができなくなってしまいます。

そうやってまずは、スズメバチを追い払う。

それでもあきらめずにスズメバチが侵入してきたら、どうするのか。
ここが、実におもしろいのです。

「日本ミツバチ」は集団でズズメバチにとりつき、瞬く間に直径5㎝ほどの「蜂球」をつくるのです。
あっと言う間の出来事です。
そうして集団でスズメバチを取り囲み、「蜂球」の中に、スズメバチを閉じ込めてしまうのです。

「蜂球」の中では、内部の温度が急激に上昇します。
内部温度は、4分以内で46℃以上に達します。
そして約20分間、約45℃前後の高温が維持され、ゆっくりと蜂群の中心部の温度(約34℃)レベルまで下降し、その後、温度は外気温レベルまで急激に下がります。

あとには、大きなスズメバチの死体が一つと、複数の小さなミツバチの死体が残されます。
スズメバチが動かなくなって数分経ったころ、ミツバチたちは「蜂球」を離れ、巣へ戻っていきます。

実はこれは、日本ミツバチとスズメバチの上限致死温度の違いを利用した戦い方なのです。

日本ミツバチの上限致死温度が、50℃であるのに対し、スズメバチは45~47℃で、死に至る。
「日本ミツバチ」は、そのわずかな致死温度の違いを利用して、スズメバチを倒し、巣を守るのです。

一匹のスズメバチを倒すために、日本ミツバチは数匹から数十匹の命を失います。
被害で言えば、ミツバチの方が圧倒的に多いです。
けれど「日本ミツバチ」は、我が身を犠牲にしてでも「命」をかけて、巣を守るのです。

そして、仲間たちの死体を後にし、ミツバチたちは何事もなかったかのように、自らの仕事に戻っていきます。

これは、世界で唯一、「日本ミツバチ」だけが持つ「スズメバチ撃退法」です。

我が国国歌である君が代の歌詞には、
「さざれ石の 巌となりて」
という一節があります。

さざれ石というのは、ちいさな小石がまとまってできた岩石です。
ひとりひとりは非力でも、みんなで協力して、巣(国)を守る。
一人一殺の毒針でなく、集団の結束と熱意で、敵やっつける。

ここに、日本人の戦い方の秘訣をみるように思います。
大東亜戦争で、若き日の私達の父祖は、日本人よりはるかに大きな体格を持ち、食べる物も豊富で、経済力も資金力も、火力もはるかに勝る米英を相手に、がっぷりよつの戦いをしました。
知恵と勇気と、そしてなにより力を合わせて結束することで、私達の父祖は、国を守るために戦いました。

いま日本は、国の内外でたいへんな危機を迎えています。
私達が戦うための方法、それは国を守り、私達の子や孫を守るための私達自身が結束することにある。
そのことを「日本ミツバチ」は、あらためて私達に教えてくれているのではないかと思います。

日本ミツバチだって、いざとなれば戦うのです。
まして私達は人間です。日本人です。
愛する者のために戦う。
そのために結束する。
保守同士が結束することが、日本奪回の要諦なのです。

なぜならいくら在日朝鮮人や在日支那人や、偏向左翼が財力や集団組織票を持っているとは言っても、その数はせいぜい2~300万です。
日本にいる日本人は1億2500万人もいるのです。
幸いなことに、日本は民主主義の国です。

日本人が結束すれば、選挙も勝てるし、日本を取り戻すことだって容易にできる。
ですから、いま日本を愛する日本の保守にいちばん求められているのが、保守が小異を捨てて大道のもとに結束することなのではないでしょうか。

高度成長の時代なら、保守はマイノリティとして、自己の小さな主張にこだわり、小さな主義主張のもとに四分五裂していたとしても、日本そのものはある意味、安泰でした。
けれど、いまは、日本そのものがなくなろうかという重大危機にあります。
その危機においてなお、小異にこだわり大道を見失うのは、正義を否定する行為です。

現実に、支那や朝鮮や在日、反日、左翼らが最も警戒しおそれているのが、日本の保守の結束です。
ですから彼らは、日本人が目覚め結束しないよう、少しでも求心力のある保守の政治家や運動家に対しては、すこしでも求心力を失わせるために、ありとあらゆる攻撃をしかけ、分裂をいざないます。

いまは、分裂こそが敵なのです。
小異についての議論なら、日本を取り戻してからにしろ。私は、そう言いたいのです。
なぜなら、いまの日本にもっとも必要なことは、日本人が目覚め結束することだからです。


ところで、ミツバチとスズメバチのことを書いたので、もうひとつ、スズメバチの習性について書いておきます。
何かというと、実は「スズメバチ」は、動く黒い物体に対して非常に敏感に反応し、これを攻撃する特性を持つ、ということです。
白や黄色、銀色に対する反応は弱く、ほとんど攻撃しません。

なぜスズメバチが、黒いものを攻撃するのかというと、人間をターゲットにしたものだとする説が有力なのだそうです。

スズメバチを食用にする習慣は世界各地にあります。
なかでも支那では、ズメバチ食の本場として知られ、膨大な量のスズメバチの幼虫が巣ごと食用として市場に出回ります。

要するにスズメバチは、支那で長い年月、人間に捕食される中で、最強の天敵を、髪の黒い支那人を攻撃するという習性を身につけたのです。
おかげで、同じく髪の黒い日本人まで、スズメバチのターゲットにされている。
要するに、支那は迷惑なのです。
世界中で迷惑なのです。
その支那に媚を売る朝鮮半島人や日本に巣食う反日知識人などは、同様に世界の人類の平和と安穏と幸福のために、はなはだ迷惑な存在なのです。


最後に、これから暑くなり、スズメバチが出て来る季節にもなりますので、いちおうスズメバチと遭遇したときの対処を書いておきます。
スズメバチは、外敵から自分たちの巣を守るために,人が巣に近づくと次のような警戒や威嚇の行動をとります。

1 相手の周りをまとわりつくように飛び回る。
2 相手に狙いをつけて空中で停止(ホバリング)する。
3 あごをかみ合わせて”かちかち”という音をたてる。

森にいて、スズメバチが、まわりを警戒するように飛び始めたら要注意です。
さらにホバリングをはじめたら、明確に「敵」として認識されたことになる。

この場合、スズメバチを横に払う動作をすると、スズメバチはお尻から警戒フェロモンを分泌しはじめます。
そうなると、仲間が次々とやってくる。

スズメバチにホバリングされたら、姿勢を低くして、ゆっくりと後ろに下がり、距離を置いて、その場を立ち去るようにしてくださいね^^☆


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終戦記念日だから!

今日は終戦記念日です。以下、私が尊敬するブロガーねずさんの大好きなブログ記事をコピペで御覧ください!

敵さえも味方にしてしまった男・・・草鹿任一海軍中将


終戦記念日だから!

会社組織などでは、大きな功績を残しても、それを“誰がやったか”があまり表にでないことが多いです。

たとえばいま、ご覧いただいているパソコンや携帯の画面には、液晶が使われていますが、これを“誰”が実用化したなどかは、ほとんど伝えられていません。

ちなみに液晶は、液体と固体の中間的な状態を保つ物質で、1888年にオーストリアのライニツァによって発見されたものですが、その後多くの研究者による研究を経て、1964年に米RCA社のハイルマイアが、DSM (Dynamic Scattering Mode)液晶を発明した。

RCAは、このDSM液晶を使った時計を発売するのだけれど、寿命が短く、実用に堪えない。

これを実用化させたのが、日本のシャープで、シャープはDSM液晶にイオン添加剤を加える方式を1971年に開発し、世界初の液晶表示電卓「EL-805」を1973年に開発します。

さらに液晶は、DSM液晶に代わって、電圧駆動素子であるTN液晶が、1969年に米ケント州立大学のファーガソンによって発明されます。
TN液晶は、DSMに比べて電流消費が少ないので、腕時計を始めとして急速に商品化が始まり、いま、眼の前の液晶画面にまで発展しています。

ここまでの記載の中で、オーストラリアや、アメリカなどでは、どこの“誰”が発明したかがあきらかになっていますが、日本のシャープは、シャープというだけで“誰が”というのは問題にされていない。

もちろん発明や開発には、それなりの天才が関与して熱心な研究を続けることによって成果をあげているのだけれど、日本では、そうした結果はチームによる成果として認識されることが多いです。

個人主義型の欧米に対して、集団主義・家族主義の色彩の強い日本では、たとえひとりの天才が発明・発見・開発したことであっても、それはあくまで“みんなの協力があってなしえたこと”として認識される。

実際どんなに素晴らしい貢績であっても、ひとりで一から十まで全部できるなどということは、まずなくて、ひとつひとつのすべてが、みんなの支えがあってはじめて偉業が成し遂げられる。

こうした傾向は、船乗りの中では一層顕著になります。

陸と違い、ひとたび外洋に航海に出れば、おなじ船内で何か月も同じ仲間達と顔を突き合わせてすごす。とにかく人の和が大切になる。
それだけに船乗りには人格者と呼ばれる人が多い反面、そんなすごいことをいったい“誰が”やったんだろう? と不思議に思って糸をたぐりよせてみても、なかなかむつかしい。

不思議なことに、戦後行われた東京裁判で、海軍からはA級戦犯がひとりも出ていません。
これも実に不思議な話です。

で、なぜかと思って調べてみたら、どうやら終戦のときラバウルにいた海軍中将、草鹿任一(くさかじんいち)氏が、その原因らしい。


草鹿任一海軍中将
終戦記念日だから!

GHQにアメリカ人でモンローという検事がいます。
彼は東京裁判のときに、海軍の戦犯を暴くことが任務で、なかでも南東方面艦隊の事件を担当した。激戦地です。

当然南方最大の日本海軍基地であるラバウルの調査をすることになる。
ところがモンローは、ラバウルの指揮官であった草鹿任一に会うと、すっかり彼に心服してしまいます。

そしてモンロー検事は、草鹿を“オールド、ジェントルマン”と呼び、自分から彼の家にに何度も出かけている。

そして“オールド、ジェントルマン”のために海軍関連の事件を全部取り下げたいからと資料を集め、結局“Case is dismissed”として事件そのものの立件を見送ってしまった!

当時、日本に駐屯していた米海軍には、アーレイ・アルバート・バーク(Arleigh Albert Burke)という人もいた。米海軍の軍人で、最終階級は海軍大将です。
アメリカ海軍史上でただひとり、海軍作戦部長を3期6年の長きにわたって務めた実績のある人で、当然GHQの中でも発言権が強かった。

バークは、大東亜戦争の最中も、終戦後も、公の場で日本人を「ジャップ!」、「黄色い猿!」と侮蔑的に呼び、露骨に日本人をさげすみ、頭から反日・嫌日感情を隠そうともしなかった。それくらい日本人嫌いだった。

そのバークも、取り調べのさなかに草鹿任一と知り合います。
その出会いが、彼の人生を一転させた。

バークは、草鹿との出会いのあと、うって変わって親日家となり、モンローとともに日本海軍軍人の裁判をことごとく不起訴にしたばかりか、日本が早く占領状態から解放されるよう尽力し、挙句の果てが日本の海上自衛隊の創設のために全力をあげて貢献します。

その功績によって彼は、昭和36(1961)年には、陛下から“勲一等旭日大綬章”を授与されています。

平成8(1996)年、彼は94歳でこの世を去ったのだけれど、さすがに米海軍の大物のバークです。
彼は米国だけでなく、世界各国から多数の勲章を授与されていた。

ところがバークは、彼の葬儀のとき、本人の遺志によって遺体の胸に、日本の旭日大綬章ただひとつだけを取り付けた。
彼にとって、他のどの勲章よりも、日本で陛下から授与された勲章が栄誉だったのです。


他にも草鹿は、東京裁判開始前にキーナン検事を筆頭に、GHQで日本を敵視していた人々にいちいち会っては大喧嘩をし、大口論をした。
その結果、彼等は逆に日本人を認識し直し、草鹿を尊敬してしまう。

結果、帝国海軍軍人からは、A級戦犯として起訴される者が誰も出なかった。
のみならず、反日的だった彼らをして、逆に日本海上自衛隊の創建にまで協力させてしまった。


アーレイ・バーク
終戦記念日だから!


バークやモンローを、そこまで親日家にした草鹿任一中将というのは、どのような人だったのでしょう。

草鹿任一は、石川県出身の海軍軍人です。

戦艦艦長、海軍砲術学校校長、艦隊参謀長、海軍兵学校校長などを歴任し、大東亜戦争では、昭和17年12月から終戦まで、ラバウルで指揮を執った。

非常に頑固で短気。筋の通らないことには一切妥協せず、たとえ上官であっても激しく叱責した人物だったそうです。

海軍兵学校・校長時代の彼には、特別“これが”というような記録はないけれど、在校生徒には絶大な信頼と人望があったそうです。
彼の校長時代の言動や訓話などは、卒業生によって語り継がれ、ジンチャン校長と呼ばれ、兵学校校長退任後もたいへんな尊敬を集めていた。

ある日のことです。
軍人勅諭奉読式のとき、草鹿は、五箇条のみを読み、生徒に「軍人たるの本分は何か」と質問した。

優秀な生徒たちです。
いろいろな回答が返ってきた。

いちいちうなづいて聞いていた草鹿は、最後に全員の前でひとこと、こう発したそうです。
「軍人は戦いに勝つことが本分である」

たったこれだけです。
しかし生徒たちは、自らの不明を恥じ、草鹿校長の言葉を胸に刻んだといいます。


昭和17年12月に、草鹿はラバウル基地の司令官として赴任します。

翌昭和18年4月の「い号作戦」の翌日のことです。


搭乗員に訓示敬礼する山本五十六連合艦隊司令長官
(向かって右が草鹿任一南東方面艦隊司令長官)
終戦記念日だから!



「い号作戦」というのは、ラバウル周辺に日本軍の航空兵力を集結し、ソロモン諸島およびニューギニア島東部への集中的な攻撃によって戦局の打開を図ろうとした作戦です。
山本五十六司令長官が、直接ラバウルにやってきて指揮をしています。

作戦の翌日、朝8時から作戦の反省会議が開かれた。

この会議は、夕方6時40分まで、延々実に10時間におよぶ会議となったそうです。
出席者全員、疲労も極限に達していたころ、最後に宇垣聯合艦隊参謀長が立って、まとめとしてこう言った。

「航空兵力の不足が今日の戦況をまねいた主因です。現地部隊の一層の強力をのぞむ」

これを聞いた草鹿は、とつぜん立ち上がり、宇垣参謀長を怒鳴りつけた。

「そんな考えの者は、一人もおらん!!」

現地で指揮をとっていて、連日のように戦死していく部下を直接見ている草鹿にとって、これ以上、何をどう「強力をのぞむ」というのか。そんな安直な考えで、部下を死なせろというのか。全員が死を賭して闘っている。甘く見るな!

草鹿はよほど腹にすえかねたらしく、会議が終わって宿舎に帰ってからも、宇垣の顔をみるとふたたび彼を怒鳴りつけています。


宇垣参謀長に草鹿が激怒した翌日、ブーゲンヴィル島方面への視察を目的として飛び立った山本五十六の搭乗する飛行機が米軍機に迎撃されて墜落します。
司令長官以下全員が戦死した。

単機で出向くという山本長官に、草鹿は、無理やりゼロ戦6機の護衛をつけた。

しかし、草鹿の心の中には、終生このときの責任が棲みついていたようです。


「い号作戦」を含め、草鹿は、終戦までの2年9か月をラバウルの責任者として過ごします。
当時の様子が彼の著書「ラバウル戦線異常なし(草鹿任一著、光和堂)」に書かれています。

すこし抜粋してみます。

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魚はようやく一ヶ月2回くらい入る程度で、お話にならず、余り期待されなくなった。

ある日爆音に驚いたのか何に戸惑いしたのか、鯨(くじら)の子供が3匹連れ立って港の奥に向かって突進し、海浜に乗り上げてしまった。

その辺にいた通信隊の兵員は、思わぬお客様に面喰らったが、早速緊急呼集で皆つかまえて大喜び。

子供でも鯨の子供だから相当なもので、一番大きいのは全長3m40cm、小さいので2m半もあり、その付近の部隊で一食くらいはお陰を被ったらしい。

引き続いてまた来ないかと、いく分あてにしていたが、そう何度も、柳ではない椰子の下に鯨は来なかった。
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動物性蛋白の補給としては(成長期間の長い豚よりは)鶏でいこうということになった。

一年あまりで、ひとり当り一羽半か二羽くらいにはなっていたように覚えている。

私も初め、今村(均)大将にすすめられて、幕僚達の食卓用を引き受ける決心でやり始め、大いに奮励努力した。

何時の間にか三、四十羽に殖えて、時々卵の一つずつくらいは食卓にならべられるようになって本当にうれしかった。
-------------------------
酒は、いちばん普遍的なものは椰子酒で、いも焼酎も造られた。

たまには陸稲から濁酒を造るものもあったようだ。

日常労働の後の一服の煙草、一杯の酒、それは理屈を超越した醍醐味がある。

いわんや御国をあとに数千里の前線で、一意敵に対して張り切っている親愛なる強者どもには、なろうことならば酒も煙草も充分に満足せしめたかったのである。
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塩は、火山の麓の海岸に熱湯の出る場所があり、その付近に穴を掘って、湧き出る熱湯の中にドラム缶を幾つも並べ、これに海水を汲み入れておけば白然に塩が出来るという寸法である。

煙も出ず、敵機が上空から見ても、うまくカムフラージュしておけば、なかなか判らぬので爆撃の心配も少く、比較的苦労せずして塩が採れることになり、これは大成功であった。
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この本には、その他バナナの茎を材料に、オクラの根を糊にして美濃紙の類を一日4千枚生産したり、ギンゴジカという灌木から採った繊維で布を織り、照明弾底部の黄燐と火山の硫黄でマッチを製造した話なども描かれています。

補給の途絶えたラバウルで、とにかくみんなが食えるようにする。

この文章には、部下たちの食に気を配った草鹿のやさしさがにじみ出ています。


その草鹿が、終戦によって終戦のときオーストラリア軍がやってくると、鬼の草鹿に一変します。

降伏調印のためにやってきたオーストラリア軍は、文書調印に、日本軍代表として陸軍の今村大将を指名してきた。

これに対して草鹿は噛み付きます。

「海軍は陸軍の指揮下に入ったことはない!
建軍の本筋から考えて陸軍には海軍の降伏調印の権限は有さない!」

草鹿は、火のような剣幕でそう頑なに主張し、海軍側の指揮官として今村大将と連名で調印します。

連名で文書に調印するということは、自ら最高責任者と名乗りをあげることであり、それはそのまま「死」を意味します。
ふつうなら、指名を受けなければホッとする。

しかし草鹿は、頑として陸海併記でなければ認められないと主張し続け、結局、これを通し切った。

さらにオーストラリア軍によるBC級戦犯調査が始まると、自分自身が知らない部下の事件や問題に対しても、
「それは自分が命令した」
「それは自分の責任である」
と逐一、烈火のごとき剣幕で、横から口をはさんだ。

ものすごい剣幕だったそうです。
その剣幕に、オーストラリアの担当官は、驚きあきれた。

そもそも現場の最高責任者である指揮官が、自分が逐一命令したというのでは、取り調べにもなったもんじゃありません。軍は、指揮官の命令で動くものだからです。

ぜんぶが指揮官の指示によるものなら、実行犯は、ただ命令を遂行しただけとなり、軍事裁判で責任の追及のしようがない。

結局、草鹿は、ラバウルのBC級戦犯でも、海軍関係者全員の不起訴を勝ち取ってしまった。


終戦後の草鹿は、復員局に足しげく通っては、ラバウルで苦楽を共にした部下の状況を確認するために、自分も苦しい生活費の中から、ひとりひとりを訪ねていたといいます。

復員局の職員は「日本海軍の司令官は数多いが、「俺の部下に変わったことがないか?」といまだに訪ねてこられるのは草鹿さんだけだ」と述べています。(『ビッグマンスペシャル 連合艦隊・下巻激闘編』世界文化社、p.172)

困窮した生活を送っていた井上成美が胃潰瘍で倒れた際には、彼の教え子や部下達と共に治療費集めに尽力している。

草鹿は、戦後はずっと鎌倉に住んでいました。

昭和45年、彼はその鎌倉からはるばる南の果て、山本長官らの墜落現場をおとずれます。

墜落現場で香華を手向けた81歳の草鹿は、

「長官、遅くなりましたが、草鹿ただいま参りました」と手をあわせた。

一緒にいた者は、平素、涙など見せたことのない草鹿の目から、滂沱の涙が流れ落ちるのを見た。


同じ鎌倉に住んでいた方に、ガダルカナルの中将・木村進元氏がいます。
彼の回想です。

----------------------------
そういえば、任一氏が亡くなる半月ほど前のことでした。

何を思ったか、ひょっこり何の前ぶれもなくやってきて、

「木村、貴様だけは元気なのだから、しっかりやれ」とハッパをかけて去っていった。

何をしっかりやればいいのか、こちらにはサッパリ見当がつきませんでしたが、いや、亡くなる直前まで、あの人は憂国の士だったですな。

自分はもう歳だから、そんな元気はないと断ると、ご機嫌斜めでした。
---------------------------

このとき草鹿83歳。

ラバウルでの耐乏生活を3年近くも体験し、その後敗戦のショックを経た上でこの意気軒昂ぶり。

草鹿は、若い頃は血色の悪い顔をしていて、どとらかというと体格も貧弱だったといいます。
しかし、彼には強靭な精神力があった。

その年の8月24日、草鹿任一は、常世に旅立ちます。享年83歳でした。

草鹿の功績は、日本側の文書にはあまり登場していません。

しかし、お国のために生き、部下を思い、戦後もGHQと闘い、日本国海上自衛隊の創建に尽力し、戦後も旧軍人である部下たちのために生涯をささげられたその功績は、大であるといわざるをえません。


草鹿任一中将は、あまり名前の知られていない人かもしれないけれど、そういう名もなきひとりひとりが、必死にささえることで日本という国はできあがっている。

有名人になどならなくていい。
そんなことより、大切なことをずっと守り通す生き方の方が、はるかに大切で貴重で意義深いものといえるのではないか。ねずきちにはそんな気がします。

それとね、もうひとつ。

最近の日本人は、怒らなくなったといわれます。

なかばあきらめて、怒らない。
顔を真っ赤にして怒る者がいると、怒っている事柄や内容ではなくて「怒っている」そのこと自体が、みっともないとか、いい年をしてとか、非難の対象にされる。

でもね、思うんです。
草鹿氏が、GHQの多くの人を虜にしたのは、ある意味、彼が怒ったからなのではないか。
筋を通して、言うべきことをちゃんと言い、時に感情を大爆発させて怒りまくったからではないのか。

昨今、民主党の議員さんたちが、横暴としかいいようのない乱暴な政治運営をしています。
自民党の代議士さんたちは、それに対し、筋と理屈を通して質問し、議論をしている。

しかしね、おとなしく紳士的にものをいえば、つけあがるだけのゲスというのは、やはり世の中にいると思うのです。
そういうヤカラには、やはり怒ることも必要なのではないか。

たしかに自民党は選挙に負けた。しかしその敗北というのは、大東亜戦争の終戦のときのショックと比べたら、はるかに軽いものでしかない。

先の衆院選など問題にならないくらいの大きなショックの中でさえも、草鹿中将のように、しっかりと戦いきって主張を通しきった男がいた。

わたしたちは、そんな草鹿中将に、いま、ふたたび学ばなければならないところがあると思うのです。

亡くなった方の名前を勝手に献金者として名簿に記載したり、内閣総理大事にもなって地球46億年の歴史がどうのこうのだから憲法違反の外国人参政権を与えろなどわけのわからないことをいいながら豪華な御殿に住むような人物より、草加中将のように生涯「誠実」の二字を貫き通す生き方の方が、ねずきちには、日本人としてとってもとっても大切で誇らしいと思えます。
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たるペー

Author:たるペー
当店ブログサイトに、お越し頂き誠にありがとうございます!
数多くの、現場施工例を画像と共に掲載しております。リフォーム・建築関係・自作PC・私が住んでいる千葉県市原市の事など。私自身が興味を持った事を中心に、ブログを更新して参りますので、どうぞよろしくお願い申し上げます!


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